森の息吹 - 2/4

 クリス先輩は結局、高校での一軍復帰は叶わなかった。いつかまた一緒に野球をしてくださいと卒業式の日に泣き付くと、俺も待ってるよ、と返してくれた。
一度だけバッテリーを組んだ試合が忘れられず、ありがたいことに高卒ドラフト指名を打診してくれた球団の誘いを俺は断った。
どうしても、どうしてもクリス先輩ともう一度バッテリーが組みたくて、クリス先輩の通う大学の推薦を受けた。進路の話を先輩にした時、どうしてそんなにいい話を蹴るのだと珍しく電話口で声を荒げた。
どうしても先輩とまたバッテリーを組みたいこと、まだプロになるには自分の野球の知識が足りない気がしてもっと勉強したいと思ったこと、そして学ぶなら、またクリス先輩から学びたいのだと伝えれば、最後は渋々理解してくれた。
俺もお前とのバッテリーが忘れられなかったよ、と電話を切る直前に言われて胸が高鳴る。捕手という生き物は本当に投手を喜ばせるのが上手過ぎて困る。
電話越しに香るはずのない、花の匂いがした気がした。

無事ドラフト一位でプロ入りを決めた降谷が、本当にこれが最後だと決めてもう一度、あと一度だけでいいから自分の真剣な気持ちを聴いて欲しいと御幸先輩に電話していたのをたまたま聴いてしまった。降谷を取った球団は一年前にプロ入りした御幸先輩のいるのとは別の球団だった。リーグも違う。この先なかなか会うこともできなくなるだろう。
真剣に、切々と普段は無口な降谷が御幸先輩へ愛を語っていた。
去年の今頃、倉持先輩が御幸先輩の母方の親族だと言う人に拐われる事件が起きて、倉持先輩も御幸先輩も実は変え魂をしていて二人とも重種だったことが一部の部員にバレてしまった。御幸先輩は重種の中でもさらに貴重種だったから降谷のフェロモンは効かなかったのだ。
野球以外はポンコツのくせに、よく今まで隠し通していましたね、とからかえば、バレたものは仕方ないから言うけどお前も馬鹿のくせに変え魂だけは上手いな、と言い当てられて焦った。本当の御幸先輩は斑類としての目が良すぎるのだと言うことをこっそり教えてくれた。
その後、卒業式でも降谷は懲りずに御幸先輩にもう一度告白していたが、お前はちゃんと遺伝子を残す為にもっと可愛い嫁を貰いな、とまた振られていた。俺は倉持の子どもを産むからお前の子は産んでやれない、とも言われたらしい。
そうして最後の一回も、御幸先輩の答えはいつも通りだ。お前の気持ちは嬉しいけれど俺はお前に運命を感じないし倉持以上に好きになれる人はいないよ、と熱烈な惚気を食らったらしい。
ごめん、と謝らせてしまったと降谷はその後少しだけ後悔していたようだった。
「美人な女子アナかモデルかアイドルでも捕まえて御幸先輩に惜しいことしたなって思わせる野球選手になればいいだろ!」
「栄純は、どうなの?」
「お、俺?俺は、これから、大学行って見つけるし!」
「…クリス先輩じゃないの?」
突然、クリス先輩の名前を出されて驚きすぎて耳が出てしまったらしい。マイペースな降谷が、触っていい?と聞いてきた。本物の犬には怖がられがちだから一度触ってみたかったのだというので仕方ないなと頭を差し出すと数度撫でて満足したのかじーんとしていた。
「栄純は、クリス先輩からいい匂いがするんでしょう?」
「…でもクリス先輩からはそんな話一度も聞いたことねーし」
「確かめてもいないのに?」
もう少し落ち込むかと思っていた降谷はもう晴々とした顔をしていた。確かにもう散々御幸先輩には振られてきたのだ。覚悟はしていたのだろう。
「栄純らしくない」
「おれ、らしく、ない?」
「ド直球の野球馬鹿でしょ」
降谷が笑う。春が来ればこいつも御幸先輩と同じプロ野球選手だ。俺は大学生になる。ずっと競ってきたライバルだけど、少しだけ遠くなる。
倉持先輩も去年、御幸先輩にそんなことを思っただろうか。あの二人は恋人同士だけど、野球に関してはその関係を一切持ち込まなかった。ポジションは違うけれど、どこかライバルのような二人だった。
「きっと、栄純の恋は実るよ」
何故だかそれは、誰に言われるよりもずっと心強かった。